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戦国武将の家紋 秀吉の参謀 黒田孝高(黒田官兵衛) 軍師官兵衛

2013.09.20

こだわりの欄間調透かし彫り
当店の千社札風木札のご注文で戦国武将の家紋と武将のお名前を
入れるご依頼をいただくことがございます。
その際、手持ちのいくつかの家紋に関する書物や博物館の図録
(合戦絵巻・合戦図屏風)の他ネットに出ている情報を参考に家紋を
確認することがございます、武将の方々の使った家紋と言うのが
お一人の方で一つでは無いと言うことや、名前も幼名から元服名、
従う主君により改名されるなど名前も違うので、名前と使って
いた時代を家紋を中心に検証しています。

黒田 孝高 家紋 黒田官兵衛 橘藤巴 藤乃丸のうちに三橘黒田 孝高(くろだ よしたか)は、『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)によると、『巻第四百二十五 宇多源氏 佐々木庶流 黒田 
左衛門尉宗満或は宗清近江國異伊香郡黒田邑に佳せしより はじめて黒田を称し子孫識隆がとき小寺を称し孝高にいたりて黒田に復す 忠之がとき松平の御称号をたまひ代々これを称す』
と冒頭に書かれていて、孝高の父親、職隆(もとたか)から孝高まで小寺姓を名乗っていた時期があったとされる、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名で竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)として広く知られる。
幼名は、万吉、改名して小寺孝隆、黒田孝高、 如水軒(号)、 如水円清(法名)
別名 祐隆(別名)、官兵衛(通称)、小官、黒官(略称)、黒田の瘡頭(渾名)
戒名 龍光院殿如水円清大居士
霊名 ドン・シメオン
家紋は、『寛政重修諸家譜』(写本)によると、『家紋 白餅 藤巴 永楽銭 もと藤乃丸のうちに三橘を用ふ後藤巴にあらたむ 伊勢守長清か家紋 藤巴 裏菊』と書いてあり、孝高公は、当初『藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)』紋を使っていたとされています。
黒田 孝高 家紋 小寺藤兵衛尉 藤乃丸のうちに三橘 黒田官兵衛 橘藤巴手持ちの紋帖では、藤乃丸のうちに三橘紋(橘藤巴)は、見聞諸家紋の第四十二張りの裏、小寺藤兵衛尉として描かれており、平安紋鑑、紋典、紋帖による紋の違い、紋のしおり、標準紋帖、江戸紋章集、廣益紋帳大全、紋かがみには収録されていないようで、『藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)』紋の存在自体を図で確認できる紋帖が少ないのと小寺藤兵衛政職は、寛政重修諸家譜の職隆の記事部分で『小寺藤兵衛政識に属し属軍功あるにより其家号をゆるさる政識死して子なし』と書かれていて、小寺氏の姓と家紋を黒田家では、黒田職隆、黒田孝高親子で引き継いでいたのではないかと思われるが、おそらく小寺氏独自の紋で、使っていた期間も短いことから、家紋付きで戦国武将を紹介している現代の歴史書でも『藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)』紋で紹介している書籍はほとんど無いです。
天文15年11月29日(1546年12月22日)生まれの孝高が小寺姓から黒田姓へ戻した時期は、天正7年(1579年)、有岡城の戦いの際、孝高は信長の命により、信長に反抗した小寺の苗字を改めさせられ、元の黒田を名乗ることとなったとされています。
単純計算33歳までは少なくとも、藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)紋を使っていたことになりますが家紋に関しては、孝高は小寺政職の従姪であり養女の、櫛橋光を生涯ただ一人の妻にするなど小寺氏に厚遇されていたことや妻への思いから、黒田 孝高が小寺姓を名乗っていた頃と黒田姓に戻してからも『藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)』紋に思い入れがあり使っていたようです。
また、寛政重修諸家譜に書かれているように『後藤巴にあらたむ』とされ後世に残っている家紋は黒田藤巴ですが、黒田家藤・三つ藤巴・左三つ藤など江戸時代に分家が創設された頃から葉の形・枚数等に微妙な変化が出だし当時の上絵師の技量によってもさらに変化された家紋が作り出されたようです。
所有している紋帖にも微妙に形状の違う紋がございます。
藤巴紋選定の逸話として、孝高が有岡城に幽閉された際『唯一心の安らぎとなった、牢獄から見えた藤蔓から黒田氏の家紋を藤巴に選んだ。』とされていますが、古文書等での確認は出来ていません。
おそらく、気に入っていた『藤乃丸のうちに三橘(橘藤巴)』紋を必要にかられ変えたのが藤巴紋で、単に藤蔓なら下がり藤等藤をモチーフにした紋は沢山あるわけで、あえて藤巴紋にこだわる理由も無いのですが、元々小寺氏の藤蔓をモチーフにした家紋を使っていたのですから逸話は美談ですが信長との間に問題が起きないように作られた話のような気もします、この逸話自体は後の世の講談や、昭和に入ってからの小説、司馬 遼太郎の『播磨灘物語』や吉川 英治の『黒田如水』にも書かれていて有名な話です。
またこの頃、竹中重治(半兵衛)の家紋のひとつ黒餅(白餅)も竹中重治(半兵衛)陣没後、用いたとなっていますが、用いるようになった経緯も諸説あり、よほど周囲が家紋も変えさせたかったのではないかと思われます。
白餅(黒餅・石餅)・永楽銭(永楽通宝)は江戸時代に入ってから替紋として記録されています。
旗印は、四つ目結(ゆい)佐々木(沙沙貴)神社神紋、永楽銭(永楽通宝)
宇多源氏 佐々木大膳大夫 入道生観 見聞諸家紋 隅立て四つ石『最初に播州にて制せらし旗は折懸旗なり これは絹三幅にして絹の長さ二間これあり すなわち先祖佐々木家の旗の方式に準ぜられる 豊前拝領の後旗数を増して十二流とし給いし時 孝高 長政相談じ給い 折懸は絹三幅にて 大力者にあらざれば立てがたしとて 絹一幅にて長旗を制せらる 絹の長三間 竿の長四間あり 上に八尺の旗あり』(黒田家譜 貝原益軒編纂)
見聞諸家紋が、応仁末年(1467年)から文明2年(1470年)までの間に成立したと推定されることから、先祖佐々木家の家紋と推測されるのは、見聞諸家紋の第四張の裏、宇多源氏 佐々木大膳大夫入道生観として描かれる『隅立て四つ石』紋である可能性もあります。
調べていくと『隅立て四つ目』紋と言う紋も使われていた形跡がありますが現存する、沙沙貴神社は天保年間に消失したものを江戸時代に平安・鎌倉時代の様式で再建されたとされており、このころから『四つ目結』紋に変ったのではないかと言う説もございます。
いずれにせよ戦国武将の使われていた家紋と言うのは時代で変る物なので、その当時どの家紋を使っていたのかは、時の権力者に都合よく書かれてしまうと言う側面を持ちますが、古文書等が手掛かりになると思いますし、それを検証することも歴史の醍醐味だと思います。
来年のNHK大河ドラマは『軍師官兵衛』に決まったそうですが、家紋に関してどう扱われるかも楽しみです。

■寛政重修諸家譜は、国立国会図書館デジタル化資料で閲覧可能です。
国立国会図書館デジタル化資料
『寛政重修諸家譜』巻第四百二十五

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577392
国立国会図書館サイトポリシー

職隆公に関してはコマ番号48、孝高公に関してはコマ番号49から記述があり、コマ番号101に家紋のことが書かれています。
毛筆の写本であると思われますが、職の字を識と誤記されている部分が見うけられます。

姫路市役所のサイトに、平成22年4月22日(金)~6月12日(日)まで行われていた、姫路文学館開館20周年記念特別展「黒田官兵衛の魅力―天下をねらった播磨の智将」の開催概要が残っており、この展示物の中に黒田孝高公が使ったとされる『金梨子地藤巴紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵』の画像がございますので参考までにご覧ください。
金梨子地藤巴紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵 本山一城コレクション蔵
(JPEG画像; 239KB)
蒔絵の藤巴紋は、バラ藤巴紋に近い形状だと思われます、現代のように統一された紋帖があるわけでもないので、ある意味蒔絵師が技術を競っていたのかもしれませんが、基本の家紋より美しい家紋に仕上げられています。

黒田 孝高 家紋千社札風木札 黒田官兵衛

お客様からのご注文では表面に
藤乃丸のうちに三橘紋(橘藤巴)、
裏面には二尊の旗をモチーフにした
彫刻をするご依頼もあります。

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