当店の千社札風木札のご注文で戦国武将の家紋と武将のお名前を
入れるご依頼をいただくことがございます。
その際、手持ちのいくつかの家紋に関する書物や博物館の図録
(合戦絵巻・合戦図屏風)の他ネットに出ている情報を参考に家紋を
確認することがございます、武将の方々の使った家紋と言うのが
お一人の方で一つでは無いと言うことや、名前も幼名から元服名、
従う主君により改名されるなど名前も違うので、名前と使って
いた時代を家紋を中心に検証しています。
竹中 重治(たけなか しげはる)は、『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)によると、『巻第三百七十 清和源氏支流 竹中
重治
半兵衛
永禄七年二月六日重治故ありて弟久作某とともに士卒十六人を率ゐて斉藤龍興が居城岐阜にいたりみづから城の在番頭斉藤飛騨をうち其外敵数多を討とり終に城を奪とるときに織田右府より志ば志ば使いをたてて城を渡すべきよし申送るといへども父遠江守某道三に属せしよしみあるがるへにこれに應ぜずしてふたたび城を龍興に返し浅井備前守長政に属すそののち織田右府につかへ命によりて豊臣太閤に属し與力の謀臣となる天正七年六月十三日播磨國三木の陣中に死す年三十六法名水徹彼地平井村の山中に葬る』と書かれている、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で黒田孝高(官兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称され広く知られる。
初名は、竹中重虎、改名して竹中重治
別名 半兵衛(通称)
戒名 深竜水徹
家紋は、『寛政重修諸家譜』(写本)によると、『家紋 丸に九枚笹 寛永系図篠の丸 黒餅
今の呈譜に半兵衛重治あるとき二十三夜の鏡餅を懐にして出陣をしに矢来りて胸に中瑠といへとも彼餅に留りて恙なかりしかばこれより黒餅をもつて家紋とす其後故ありて黒田官兵衛孝高に譲り與ふといふ』と書いてあり、丸に九枚笹、九枚笹、黒餅(白餅・石持ち)を使われていて、特に黒餅を幸運の印として陣旗等に好んで使い、その黒餅を黒田官兵衛孝高に譲ったようです。
丸に九枚笹紋は、現在も同じ名称で紋が存在しますが、寛永系図篠の丸紋は現在同じ名称で紋は存在しません、この寛永系図篠の丸紋は、まだ紋の名称が統一されていない時代に編纂された『寛永諸家系図伝(寛政重修諸家譜は寛永諸家系図伝の続集にあたります)』に書かれていた紋の名称を引き継いだ物と思われ、『篠の丸』紋は現代の『笹の丸』紋とは別物で、『丸に九枚笹』紋の丸を外した『九枚笹』紋と言うことになります。
重治公は、天文13年(1544年)から天正7年6月13日(1579年7月6日)の方なので、『寛永諸家系図伝』の編纂された江戸時代の寛永18-20年(1641年-1643年)よりも前の方ですので、重治公が活躍されていた時使っていた紋は『九枚笹』紋と言うことになります。
『寛政重修諸家譜』が文化9年(1812年)に完成した系譜集なので、竹中氏の家紋は記録としてはこの前後に『丸に九枚笹』紋に変ったと思われます。
■寛政重修諸家譜は、国立国会図書館デジタル化資料で閲覧可能です。
国立国会図書館デジタル化資料
『寛政重修諸家譜』巻第三百七十
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577380
国立国会図書館サイトポリシー
竹中氏に関してはコマ番号39、重治公に関してはコマ番号41から記述があり、コマ番号53に家紋のことが書かれています。
国立国会図書館デジタル化資料には、寛政重修諸家譜の活字本もあるのですが、読み手により誤記されていることもあるので毛筆の写本を元に検証しています。
お客様からのご注文では表面・裏面に
九枚笹紋を彫刻するご依頼もあります。
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